(7/31まで期間限定!)「視覚障害者と仕事」がテーマの本『あまねく届け! 光』から視覚に障害を負った会社員による一編「せっかく視覚障害者になったのだから」のテキストデータを公開!

歌手で俳優の福山雅治が主演、大泉洋がバディ役で共演したTBS系日曜劇場『ラストマン-全盲の捜査官-』が、25日に最終回をむかえました。

視覚に障害を抱えながらも、障害がない人とともに働ける。そのことが、実感できるドラマだったかと思います。

全盲の人が、視覚に障害がある人が、障害がない人と同じ職場でともに働く。それは、ドラマの世界だけでありません。弊社・読書日和では、『ラストマン』が終わっても「視覚に障害を抱えながらも、障害がない人とともに働ける」ことを伝えていきたいとの思いで、「視覚障害者と仕事」がテーマの本・視覚障害者就労相談人材バンク有志 (著) 吉川典雄 石川佳子 小林由紀 岡田太丞(編)『『あまねく届け! 光 ~見えない・見えにくいあなたに贈る31のメッセージ~』から人生の中途で視覚に障害を負った会社員による一編「せっかく視覚障害者になったのだから」を以下に公開します。

    第3章 就労継続
    ~見えない・見えにくくなっても同じ職場で仕事を続ける~

    17.せっかく視覚障害者になったのだから
    吉川 典雄

「もう、ここへは戻れない」
自らの目の症状を上司に伝え、休暇を申し入れた後、本社ビルを出て振り返った私はそう覚悟した。通い慣れた私の職場は、春の空気にぼんやりとかすんで見えた。新年度の異動で事業部の企画室長を拝命したが、度重なる出張と深夜に及ぶ資料作成。私の目は、既にその激務に耐えられる状態ではなくなっていた。PC画面のような明所(めいしょ)はホワイトアウトし、照明の少ない暗所はブラックアウトする。資料の細かな文字や同僚の表情も判読困難に。仕事のパフォーマンスは落ち、ストレスを生じ、それがまた症状を悪化させるという逃れられない悪循環。数週間にわたって睡眠障害に陥っていた私は、大切な会議の席上、プロジェクターの光が眩しくて不用意に目を閉じてしまい、一瞬意識を失った。年配の工場長からの容赦ない叱責。それが私の「覚悟」の直接のきっかけだっただろうか。

あれから十数年が経った。医療的にはさまざま 手を尽くしたが、生来の高度近視に緑内障が合併した私の目は、今では光や影しか判らない程度にまでなっている。日常生活の質でさえ、視力の低下とそれを補う訓練のせめぎあいの狭間で常に揺れ動く。でも、あの時の覚悟に反して、会社を、仕事を辞めなくてよかった。定年を過ぎた今、しみじみとそう思う

はたして仕事を続けられるのか。方向を見失い、難破船のように打ちのめされていた当時の私を、一条の光をもってその名の通り暗闇の向こうから行く手に導いてくれたのが、京都ライトハウスだった。当事者である先達、そして彼らを取り巻く支援者。そこで幾多の素晴らしい人たちに出会うことになる。

「よくここに来ていただけました」
障害者福祉施設に対する閉鎖的という先入観とは裏腹に、明るい印象のフロアで、京都府視覚障害者協会(京視協)の相談員や鳥居寮の訓練士の人たちは、私と妻をやわらかく迎え入れてくれた。まったく視覚障害者の仕事のイメージがなかった私は、その人たちから、白杖を用いて自力で安全に通勤すること、拡大読書器やPCのスクリーンリーダーを用いて文書を読み書きすること、それらによって会社を辞めずとも仕事を続けられる可能性があることを知らされる。当事者ならば、誰もがしている「普通」のことなのだと。意欲さえあれば、支援する制度や機器は用意されているのだと。

それならば、可能性があるのならば、自らのため、そして家族のため、なんとか会社に戻ろう。文字どおり、私の手探りの復帰戦が始まる。まるでテンカウントまでにファイティングポーズをとらなければKO(ケーオー)負けを宣告されるよろめくボクサーのように。障害者手帳を取得し、歩行訓練を受け、補助機器を手配し、その上で会社の人事と交渉し、仕事への意欲を示す。妻と二人三脚の悪戦苦闘が続いた。

3か月後、はたして私は、職場への復帰を遂げる。そこは、本社機能部門で特許などの知的財産を扱う部署。これまでの技術系の知識を活かせる、以前に事業部門でマネジメントを担当した経験もある仕事だ。配慮された人事ながら、それゆえ同僚も過去の私を知る者たちばかり。地に落ちた私の境遇を知り、投げかけられる驚きとも憐れみともいえない視線が痛い。そんな環境で、ともかくも私の第二の仕事人生が始まることになった。

「うちの会社って、優しい会社だよね」
不安と焦燥に駆られて出勤した新しい職場で、先輩からかけられたこの一言は、私の心を一層乱した。

私が勤める会社は、オムロン株式会社。主として制御機器を扱う電機メーカーだ。創業者・立石一真(たていしかずま)の先見性によって、高度成長期にオートメーションの時流に乗り発展を遂げた。当時としては画期的な福祉工場「オムロン太陽」を設立するなど、「公器性」を経営理念にうたう。しかし、そんな障害者福祉に理解のある会社にとってさえ、視覚障害者、とりわけ中途障害者となれば、扱いに戸惑うことになるはずだ。何ができるか戸惑いつつもとりあえずは受け容れる、「優しい会社」とは、そんな慈悲深い会社という意味なのだろうか。私のほうも「会社に甘えている」と、後ろめたさが無かったといえば嘘になる。それでも何かできるはずだと、ジレンマと組み合う日々が続いた。

私が仕事に復帰した頃、娘はまだ小学生だった。ある日、彼女は一冊の文庫本を差し出し、私に読んでみろと促した。その本とは、『星の王子さま』。中学生の頃、英語訳のテキストとして読んだことはあったが、その内容は記憶に残っていなかった。この童話とも寓話とも、あるいは時として哲学書ともいわれる作品を音声図書で読むなかで、私は衝撃的な一節に出くわした。それは、狐が王子さまとの別れに知恵を授ける場面。

「大切なものは目には見えない」

もちろん、これは単なる視力の問題ではないことは明らかだ。しかし、著者の意図がどこにあろうが、この言葉は三十数年の時を超えて新たな啓示的な含意を伴いながら私に降臨した。人は人生で言霊ともいえるものに震撼し、畏怖する瞬間が一度はあるものだ。娘が意図したのかどうか定かではないが、彼女からの贈り物は、障害を抱えることになり悶々とした日々を過ごしていた私に、それまでのほのかな導きの光を鮮明に見せてくれるものとなった。以来、私は視力に由来する絶望感に苛まれるたびに、その命題の対偶を心のなかで繰り返す。「目に見えるものに大したものなどない」のだと。

憤怒、怨嗟、羨望……。津波のように非周期的に襲来する負(ふ)の激情も、自ら平常心に収める術を少しは学んでいった。ぎこちない職場での立ち居振る舞いも、役割を見いだすにつれ、次第に自然なものになっていった。周囲も必要なサポートを必要な時にしてくれる、ある種の「慣れ」が形成されていったように思う。また、歩行時の衝突により何度か白杖を折られた通勤ラッシュの京都駅でも、見知らぬ人たちが私に声をかけ、手を差し伸べてくれるようになった。

以前はよく、「失くした(なくした)もの」を数えていた。例えば「口ほどに物を言う」はずの目。私は視線による意思や感情の伝達手段、アイコンタクトを失った。また、人には絶対見せられない自分だけの記念の手紙や写真。手元にあっても見ることのできない、スイートメモリーズを失った。そして、若い時からのいくつかの趣味。絵画、囲碁、サイクリング……。しかし、今では「なくしたものはあるけれど、得られたものもあるのではないか」という問いに答えることができる。それは、「人の善意、人との絆」だと。

多くの人に助けられた。もし障害者にならなかったとしたら、世の中にこれほどの無私の善意や利他の絆が溢れていることに気づかずにいたに違いない。不幸せも幸せも、数えれば増える。もうなくしたものに恋々とすまい。人生にとって、かけがえのない「大切なもの」があるのだから。

「せっかく視覚障害者になったのだから」
最近、おりにふれよくこのフレーズを口にする。ごく自然に出るそれが、意外にも聴く人の内面に深く浸透していくことに、当の本人が驚く。

数年前、会社で知的財産の管理を中心とした業務に加え、新入社員などへの教育研修も担当する機会があった。それまでも総務の計らいによって社内で「視覚障害者の手引きセミナー」は開催していたが、知的財産関連の講義は私にとって一つの挑戦でもあった。既存のテキストを自分が説明しやすいようにアレンジし、伝えるべき重要なステートメントは暗唱する。その準備には人一倍時間を取られることになった。「視覚障害者が社内研修の講師をする?」受講生は一体どう感じるのだろうか。不安のなかでの初めての登壇。でも、それは杞憂だった。手を挙げてもらう代わりに拍手をしてもらう。まとまった文章は順番に読み上げてもらい、随時質疑応答やコメントを交わす。そのなかで、受講生が講師をサポートしようとする意識が働くのだろうか、研修への参画の姿勢が次第に前向きになるように感じられる。特に新入社員には、自ずと会社のダイバーシティへの取組みが実践として理解され、強い印象をもって記憶に刻まれる。そこには、視覚障害者の講師ならではの効果がもたらされたに違いない。

それらの経験を踏まえて、私は社外でも視覚障害者の就労を支援するセミナーやフォーラム、研究会などでの講演依頼を受けることになった。ソーシャルインクルージョン――すべての人々を孤独・孤立・排除・摩擦から援護し健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合うこと。これが私の主題となっていった。障害当事者の生の声は、その理念に関心を寄せる聴衆の心に共鳴する。さまざまな場面で出会う老若男女の個性溢れる同志たちは、今や私にとってかけがえのない宝となっている。彼らとの懇親の場は、苦労話も笑い飛ばせる何物にも替えがたいひとときだ。

また社内での新たな取組みとして、各種サイトの情報アクセシビリティの評価や、一般消費者向け商品のユニバーサルデザインにも参画している。同じ企業グループで働く視覚障害者に声をかけ、これらのプロセスに加わってもらうことによって、当事者にも会社にも思いがけない価値を産み出す。かつての技術者としてのアイデンティティさえ甦る瞬間が、そこにはある。さらに、理系の学生に行うユニバーサルデザインに関するワークショップ形式の授業も楽しみとなっている。私の子供よりも歳下の学生たちとの交流は刺激的で、彼らの発想力の新鮮さに毎回驚かされている。

2019年7月、私は37年間勤めてきたオムロンでの定年にあたり、京阪奈(けいはんな)の研究開発拠点で記念講演をさせていただいた。題して、「見えない私にとってよいことは世界にとってよいことだ~社会貢献から価値創造へ~」。障害者となった十数年前のことを振り返るに、このような形で会社人生の節目を迎えられたことは、まさに感無量というほかない。今後も嘱託社員として企業の社会貢献と価値創造に取り組めることの幸せを感じている。

ここに、あの時のほのかな「一条の光」のことを思い、拙稿を終える。私を導き、励まし、共感してくれたすべての人々に、そして私と共に歩んでくれた妻に、心よりの感謝を込めて。

吉川 典雄(よしかわ のりお)
オムロン株式会社 知的財産センタ勤務